福井県指定有形文化財指定

1 名称

  三國神社楼門(随身門)一棟

2 建造物の構造および形式

  三間一戸楼門 組物三手先(尾垂木なし) 中備蓑束
  腰組三手先(秤肘木なし) 腰組中備蟇股 腰組中央間大虹梁
  二軒扇垂木 入母屋造 妻豕叉首
  彩色弁柄、胡粉および岩絵の具
  桧皮葺(現在、銅板一文字葺きに葺き替え工事中)
  前面両隅間に金剛柵を設け随身像を置く
  上層中央開板扉幣軸吊 両脇間両妻共三角竪連子窓
  下層石敷(笏谷石)梁間15尺2寸3分(4.615m)桁行26尺9寸8分(8.175m)
  上層板敷四方化粧切目縁 梁間14尺6分(4.26m)桁行25尺8寸(7.817m)
  延べ21.52坪(71.03u)
  棟高40尺9寸7分(12.414m)軒高25尺5分(7.59m)

3 建立年代

  元治元年(1864年)釿始  明治3年(1870年)完成

4 作者名

  棟梁 森町大工 安右エ門

5 由来

  大山咋命と継体天皇をお祀りした三國神社は延長5年(927年)に醍醐天皇の命により編集された延喜式にその名を残す式内社。
  神社楼門(随身門)は和様を基調としながら扇垂木など禅宗様を加味している。
  組入天井を縁板の下まで張ったり、軒に菱支輪と雲支輪を併用しているのもめずらしい。
  楼門左右の随身像は明治2年(1869年)松ケ下区の寄進で、随身像の作者は当湊の志摩竜斉である。
  楼門上の『光華閣』の三字額は慶応4年(1868年)第17代福井藩主、松平茂昭公の寄進によるもの。

6 保存管理状況

  昭和30年      桧皮葺屋根(全面)葺替え工事施工
  昭和62年      桧皮葺屋根(片面)葺替え工事施工
  平成16年12月  銅板葺屋根(一文字葺)に葺替え工事
               および、屋根小屋組の修復工事着工

 

 

 


随身門 正面より
(随身門 正面より )

随身門 神殿より
(随身門 神殿より )

随身像 正面左
(随身像 正面左)

随身像 正面右
(随身像 正面右)

三國神社随身門の建築文化財的価値について
 
 三國神社随身門は三間一戸の楼門である。広大な三國神社の社域にふさわしく、笏谷石で整えられた参道の正面にどっしりと華やかに建っている。
 規模は福井県内の楼門の中では最も大きく、軒の組物も三手先二軒扇垂木と本格的である。腰組も、秤肘木は省略するも三手先とし、四方切目縁は小口に彫刻板を張り付けた角材で化粧を施すなど凝った作りである。組物や支輪は青、縁、白などで彩色を施すほか、すべてを弁柄塗りとしていることが華やかさを引き立てている。
 三国湊がもっとも繁栄を極めた江戸時代末期に、三国の町衆が総力をあげて近在には見られない立派なものを意気込んで実現した様子が十分にうかがえる。
 ところで、全国には60余棟の国宝あるいは重要文化財の楼門がある。
 その半分が中世、半分が近世の建築になるが、三國神社随身門より梁間、桁行ともに規模の大きなものは13棟を数えるだけである。そのうち当初から桧皮葺きのものは2棟しかなく、いずれも室町時代のものである。
 また、三手先以上で扇垂木とするものも少なく、日光の陽明門と大猷院二天門、神部神社浅間神社楼門の3棟に過ぎない。
 このように三國神社随身門は全国の重要文化財と比較しても、規模形式ともに決してひけをとる事なく、貴重な文化財建造物であるということができる。

 三國神社随身門の屋根は嶺北では珍しい桧皮葺きであったが、2004年、銅板葺きに改められた。
その際、もとの桧皮葺きの形を極力引き継ぐように努めた。また、これを機に、建築後130年の間に生じた軒の垂れを回復するための処置もとられたが、完全を期すには野小屋の抜本的な修理が必要であることから、棟束の歪み拡大の防止など最小限にとどめた。
 今後は、傷みの烈しい高欄の修理や彩色の復原を急ぎ、さらに次の屋根修理の折には野小屋の抜本的修理と桧皮葺きへの復旧が望まれる。

  2004年12月1日

福井大学工学部建築建設工学科
  助手 福井 宇洋